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蒋ヶ池

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1200年前からここは池だったんですと。

伝説によるといまから1200年前の昔、嵯峨天皇の時代のことです。このころ豊後の上野丘の地に、百合若大臣という鉄の大弓を使っていた大変力の強い国主が住んでいました。百合若の父は左大臣の公光という偉い方でした。当時、百合若は勅命で蒙古を討つために部下を連れて筑紫の国に向かい対馬の沖で敵と戦い大勝しました。帰りの途中に玄海の島で休憩をとり深い眠りにつきました。
家臣の別府兄弟は百合若を捨てて部下を引き連れ豊後の地に帰り着きました。そこで百合若は海上で戦死したことにして別府太郎が国主になり、栄華な生活をおくることになりました。
国主になった太郎は、百合若の妻に心を寄せて無理矢理に自分に従わせようとしました。
それでも言うことを聞かないので最後の手段として、屋敷の側にあった広いまこも池に御台所をす巻きにして沈める計画をたてました。このことを知った屋敷の門番の翁が、ひそかに自分の娘の萬寿姫を御台所の身代わりとして池に入水させて百合若の妻を助けました。
一方御台所は背の君の死に疑問を持ち、百合若が育てた鷹の足に文を着けて放しました。
島に残されていた百合若のもとに鷹が着いたことで事情が判り、別府兄弟の逆心を知った百合若は苦労をして豊後に帰り鉄の弓で別府兄弟を討ち、再び国主になりました。
百合若は妻の身代わりとなった萬寿姫の苦節を悼み入水した池の側にお寺を建立しました。そしてまこも池と姫に因んで蒋(まこも)山萬寿寺と号するようになりました。
百合若大臣の亡骸は、この池の南の丘にある大臣塚に葬られています。なお大友中興の祖といわれた十代目の大友親世がこの地で亡くなりました。
昔の萬寿寺の旧跡はこの地になります。現在の若宮神社に通ずる旧道と大分川のほぼ中間に位置し大臣塚・まこも池・瑞光寺等も含めて広大な寺城を形成していました。盛時は豊後第一の禅寺で海内でも有数な寺院でしたが戦国時代に戦火の犠牲となり消失しました。平成5年の現在地でみると東北の方向に見える帆秋病院の辺りも境内の一部になります。
なお広大であった往事の萬寿寺のことが刻字された「大乗妙典一石一字之塔」の石碑が豊永3(1707)に建立されており現在も帆秋病院の裏庭に大切に保存されています。
大臣塚と萬寿姫の祭祀は、毎年102日に萬寿寺が行っています。
       参考資料「豊府古蹟研究」(郷土史蹟伝説研究会編)
           平成56月吉日      蒋山萬寿寺



by you-zooo | 2016-03-03 00:10 | 守られている景観 | Comments(0)

ゆっくりした旅が出来ない男の旅の綴り


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